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加越能鉄道・加越能高速鉄道計画

昭和29年の富山−金沢間免許線

総延長100kmを越す加越能高速鉄道計画のうち、免許を得られたのは富山−高岡−金沢間のみ、さらに、実際に建設工事に取りかかれた区間は、富山−高岡間のみでした。
ここでは、昭和29年5月10日に当時の運輸省より認可を受けた免許線を取り上げます。

概要

事業者 加越能鉄道株式会社
線名 加越新線(※ 正式名称ではないようです)
区間 富山−金沢間および佐野−高岡間
距離 富山−金沢間 60.71km
佐野−高岡間 4.15km
経由地 本線:富山−新富山−西富山−呉羽−黒河−水戸田−櫛田−二塚−佐野−柳島−醍醐−高波−若林−津沢−古久−末友−臼谷−人母−竹又−古屋谷−森本−小坂−金沢
支線:佐野−上関−高岡
ターミナル 富山・高岡・金沢とも、国鉄駅に接続、またはその付近に設定
費用 29億9500万円
出資比率 富山県側2/3、石川県側1/2
車両 39両
旅客電動車22両、旅客付随車11両、貨物電動車3両、貨車3両
運行 午前5時半〜午後10時半まで、68回運行
うち半数は50分間で突っ走る急行(管理人注:おそらく富山−金沢間)
輸送量予測 旅客 一日平均55000名
貨物 一日平均7トン
収入予測 年間604659000余円

MAP

予想図"
※MAPをクリックすると拡大表示します。

建設免許線のおおよその通過地を赤線で示す。
周囲の黒線や青線は、当時の国鉄線と私鉄線を、ほぼ再現してみました。細かいところが昭和29年当時と異なるかも知れませんが、ご容赦を。
免許線は、高岡に寄りつつも、富山−金沢を出来るだけ最短距離で結ぼうとしていた事がわかります。津沢−金沢間は、現在の北陸自動車道のルートにほぼ沿っていたと思われます。

建設スケジュール

免許取得 敷設免許取得 昭和29年5月10日
測量完了 免許時には未定である、富山・高岡・金沢各市内の
乗り入れ箇所を確定させる
昭和29年秋頃
着工 昭和30年5月頃
第一工期 津沢−小坂間23.5kmの建設工事 昭和30年8月〜31年11月
第二工期 津沢−高岡間17.2kmの建設工事 昭和30年5月〜32年4月
(管理人注:第一工期と
逆のような気がするが・・・)
第三工期 上佐野−富山市付近18.6kmの建設工事 昭和32年1月〜33年4月
第四工期 富山市内、金沢市内5.6kmの建設工事 昭和32年5月〜33年4月
完成 富山国体開催に間に合わせる 昭和33年

解説

昭和28年2月27日の免許申請時は、富山−高岡−金沢間と高岡−七尾間で申請していました。結局、免許が下りたのは、富山−高岡−金沢間のみ。正確には、富山−金沢間の途中、佐野付近で分岐して高岡に至る計画のようです。のこる高岡−七尾間は、保留扱いとなりました。
行政も関わっているとはいえ地方の小私鉄による、あまりに壮大な計画に、運輸当局が危惧したためと言われています。

この免許区間は、戦前の筑豊電鉄・黒崎−博多間59.2kmを抜いて我が国最長の私鉄であると、新聞紙上では謳われています。

問題は、資金と土地買収。

免許時の新聞に掲載された、加越能鉄道役員のコメントです。
このとき、富山県知事は、資金の確保にも充分協力し・・・というコメントを残しています。
加越能鉄道会社には富山石川両県が出資しており、単なる私鉄の計画ではなく、行政も深く関わっていることが伺えるコメントであります。

このページに載せたデータは全て新聞紙上に載ったもの。ここまで具体的に計画されながら、どうして実現しなかったのでしょうか。

昭和33年までに全て完成させる予定だったといいますが、そのころは用地買収すらしていないのです。
富山−高岡間の分割工事認可は、昭和34年12月です。
遅れれば遅れるほど、建設の機運は冷めていくのです。

北陸線の複線電化が富山まで完成するのは、昭和39年のことです。

出典

特に断りが無い場合、このページの各データの出展は、昭和29年5月11日付富山新聞朝刊一面記事および、同日付読売新聞富山版を参考にしています。
さらに、国立公文書館所蔵公文書にて補足しています。

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