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富山地方鉄道・海岸線

中滑川駅構内

中滑川駅構内を富山方より見る。中滑川駅の使われていない「3番線ホーム」。このホームが海岸線用として用意されたとのことです。
レールは赤さびていて草ボウボウ。車止めがありその先はありませんが、水橋を経て岩瀬へ向かうレールが繋がるはずでした。
(2002年10月日撮影)

まえがき

現在の富山ライトレールは、2006年2月までJR富山港線でした。富山市の海の玄関口である岩瀬地区と富山駅を結ぶ単線のローカル線でしたが、 沿線の工業地帯への貨物列車や工場への通勤輸送で賑わったその昔、この路線に接続し、岩瀬−水橋−滑川を結ぶ新線計画がありました。。。

概要

事業者 富山電気鉄道 → 富山地方鉄道株式会社
線名 海岸線
区間(主な経由地) 中滑川駅−西水橋−東岩瀬 (後に 富山田地方 → 稲荷町 → 越中荏原)
距離 10.4km(滑川−岩瀬間)
費用

概略図

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経緯

昭和02年12月25日
(1927年)
富岩鉄道、富山−岩瀬浜間(7.9km)全通
昭和12年12月12日
(1937年)
富岩鉄道、富山電気鉄道傘下に
昭和15年8月31日
(1940年)
富山電気鉄道、滑川町(現滑川市)−東岩瀬町(現富山市岩瀬地区)間の鉄道敷設免許申請
昭和16年12月1日
(1941年)
富岩鉄道、富山電気鉄道に吸収合併
昭和18年1月1日
(1943年)
富山電気鉄道を母体としての富山県下交通大統合会社、富山地方鉄道発足
昭和18年3月 8日 富岩線の国鉄移管に先立ち、対抗措置として
桜橋通り−東岩瀬町東堀間軌道敷設特許申請
(市内電車線桜町より延長し、富岩線・薬専校前まで軌道線を敷設し以降は、国鉄移管決定済みの富岩線を共用する計画)
昭和18年06月01日 富岩線、戦時要請により国鉄へ移管、現在のJR富山港線となる
昭和18年7月23日 先の、桜橋通り−東岩瀬町東堀間軌道敷設特許申請が、富岩線の国鉄移管以前に認可が下りなかったため、改めて、富山港線富山口−岩瀬浜間の線路共用申請提出
(昭和19年却下)
昭和20年12月
(1945年)
昭和15年提出の免許申請却下
昭和23年
(1948年)
富岩線(富山港線)払い下げ願提出(実現せず)
昭和25年4月20日
(1950年)
中滑川駅舎改築
昭和28年3月27日
(1953年)
富山地方鉄道、滑川−岩瀬間の鉄道敷設免許申請、これは昭和15年の申請と全く同一内容によるもの
昭和29年4月1日
(1954年)
先の免許申請を取り下げ、改めて、電鉄富山−奥田−東岩瀬−中滑川間(17.2km)の敷設免許申請をおこなう
昭和32年5月
(1957年)
富山市、滑川市、水橋町の市長、町長、議長、商工会議所会頭らを中心とする海岸線敷設促進期成同盟会結成
昭和33年9月30日
(1958年)
電鉄富山−奥田−東岩瀬−中滑川間(17.2km)の敷設免許を得る。工事施工申請期限は36年9月29日まで
昭和36年1月
(1961年)
滑川市魚躬地区にて反対運動起こる
昭和36年3月1日
(1961年)
国鉄総裁に対し、「富山港線払い下げ還元請願書」を提出
昭和37年
(1962年)
中滑川−水橋間(4.5km)の用地買収着手、一両年中に、中滑川から水橋地内白岩川付近までの買収を終える
昭和38年3月7日
(1963年)
国鉄中部支社長に対し、「富山港線直通願」を提出
昭和39年7月17日
(1964年)
路線変更認可取得。(電鉄富山−稲荷町−広田−浜黒崎−西水橋−中滑川)
昭和40年6月28日
(1965年)
分割工事として、西水橋−中滑川(3.9km)の工事施工認可取得
昭和41年6月22日
(1966年)
上記区間を着工する。
昭和43年6月1日
(1968年)
6月27日を期限としていた、西水橋−中滑川間工事の竣工期限を45年6月27日に延伸する申請提出。(認可は同年7月17日付)
昭和43年7月29日
(1968年)
再度、路線変更認可申請。今度は地鉄本線の常願寺川鉄橋東端付近(越中三郷駅は経由する?)より分岐して西水橋に至る計画にしようとしたが、認可に至らず
昭和48年7月2日
(1973年)
免許廃止認可

解説

現在の富山ライトレールの前身であるJR富山港線は、元は「富岩(ふがん)鉄道」という民間鉄道が開通させた路線です。
富山地方鉄道に統合後に国有化されましたが、富山地鉄は、この富山港線より浜黒崎・水橋地区を経由して滑川に至る、現在の富山市の海岸部を走る鉄道を計画していました。

これは富山電気鉄道→富山地方鉄道のオーナーであった佐伯宗義氏の構想である「富山県一市街化構想」に基づくもので、昭和15年に当時の富山電気鉄道から最初の免許申請をしています。傘下におさめ後に吸収合併する富岩鉄道線を延伸し、岩瀬から水橋、滑川といった海岸部の街を結ぶことによって、県東部の交通ネットワークを完成させるための計画です。

しかし時は戦争の時代。海岸部交通ネットワークを築くべく傘下におさめた富岩線は戦時中の国策により国鉄に移管されてしまいます。
海岸線の免許申請も戦時中の混乱の中、国も会社もそれどころではなくなり計画は頓挫、申請書は戦後に、富山電気鉄道を引き継いだ富山地方鉄道に返還されてしまいます。

しかし海岸線の夢はあきらめません。
まず戦後には富岩線、国有化後の富山港線の返還運動を国に対して起こしています。
当時の社長・佐伯宗義氏はこのとき衆議院議員でしたが、会社が起こした返還運動には、なんと反対していたとされています。
それは、城端線の返還問題も絡んでいたと言われています。両路線とも払い下げを受け、県内の地域交通は全て富山地鉄グループに一元化すべきとの考えを持っていた佐伯氏にとって、旧富岩線のみの払い下げで、国にこの話を打ち切られては困るから、でしょうか。
あるいは、国全体のことを考えるべき政治家という立場に立ち、自らがオーナーを勤めるとはいえ一私企業の利益になる事は慎むべきという思惑も働いたかも知れません。
結局、どちらも実現せず。

払い下げが実現しないならばと、国鉄に対し、線路の共同使用などいろいろ働きかけますがこれも却下されてしまいます。

そこで、戦術転換を図り、昭和29年に電鉄富山−奥田−東岩瀬−中滑川間(17.2km)の区間で免許を申請しこれが昭和33年に認可されて、計画が動き出します。
これは、別掲のMAPを見て頂きたいのですが、電鉄富山−東岩瀬間は富山港線と平行する形で自力で建設する、という非常に大胆な計画です。
とはいえ、国鉄線との平行線は地鉄本線・滑川−黒部間でも造ったし、さらに現在の万葉線である高岡駅前−六渡寺間、これは富山地鉄として戦後初の新線ですが、かつての国鉄新湊線に平行し、これの開業によって国鉄から乗客を奪い、貨物専用線に変更させてしまった経緯があります。
富山港線の国有化は富山港および背後の工業地帯への貨物と人員輸送を重要視した戦時国策によるもの。戦後も貨物輸送で活況を呈し、北陸線の富山操車場からの貨物用短絡線まで建設されたほど。
だったら、富山港線は貨物一本でやってください、乗客はうちが扱います、という腹づもりだったのでしょうか。

しかし、こういう形での新線計画は全国至る所にありまして、既設線に対する牽制や他社計画に対する牽制それに利権確保の思惑など、要するに本気で建設するつもりではなく政治的な理由による免許申請というのがあるようです。
このルートも、本気で建設するつもりではなく、富山港線の払い下げもしくは共同利用に応じない国鉄へのあてつけにすぎないのかもしれません。
それというのも、この免許が認可された後の昭和36年に至っても、国鉄総裁に対し払い下げの請願書を提出していますから。。。

しかし戦後の混乱から復興し高度成長期に入るにつれ、新線を敷設するはずだった富山港線と北陸線の間、奥田地区や岩瀬地区には宅地開発がすすみ、また、大工場が進出するなどして新線建設の余地はなくなり、また富山港線の払い下げもしくは共同利用も不可能ということで、岩瀬への新線敷設をあきらめ、新たなルート設定を行います。

昭和39年に、本線の稲荷町−東新庄間から分岐して、富山市広田地区を通って浜黒崎から水橋に至る経路変更がそれです。

北陸線と現在の国道41号線の間を通過するこの新ルートは、岩瀬方面からの撤退という消極的理由のみならず、「新線と既設線(地鉄本線)との複線的運用による輸送力増強を図りたい」という積極的な理由もありました。
本線の輸送は一層逼迫し・・・と、運輸省に提出した企業目論見書記載事項の変更届に記載しているほどです。
それに添付されていた図面によると、稲荷町を過ぎてから本線と分岐した新線は、浜黒崎付近までほぼ一直線であり、スピードが出せそうです。
加えて、電鉄富山−中滑川間のキロ数も上市経由に比べて短縮できます。

もし実現できていれば。。。惜しい計画です。

これでいくと思いきや、昭和43年の再変更申請をしています。
結局認可されなかったこのルートは、常願寺川に架橋する費用を節約する為、と言われています。
この当時は西水橋−中滑川間の用地買収を終え工事に着手(昭和41年6月)しているさなかのこと。

だがすでに時はモータリゼーションのまっただ中。地鉄の経営も怪しくなる中、新線建設の意義も、その力も、すでに失われていました。。。。。

このルート変更申請は運輸省の認可が下りず、そして昭和48年の免許廃止をもって、、、海岸線の夢は潰えたのです。

天下の鉄道省、国鉄を向こうに回し、壮絶な闘いを繰り広げた海岸線計画。
戦時国策による旧富岩線の国鉄移管が足かせとなり、本来やる必要の無かった、旧富岩線の国鉄との共用交渉や路面電車の旧富岩線接続・乗り入れ申請に労力を裂かれたこと。この問題が尾を引き、富山−水橋間のルートが二転三転したことによる時間と労力の浪費。
これらの問題がなければ、実現していた可能性が非常に高い路線だと思います。
加越新線はスケールが大きすぎて挫折したが、こちらは結局、戦争に振り回された事が敗因でしょうか。

それと、既設線への接続問題もありました。
かつてJR富山港線では、富山駅の北端のホームから発着していました。(現在の富山ライトレールでは富山駅の北口まで軌道新線を敷設し、富山駅乗り入れを廃止しています。)富山港線の払い下げが実現したとして、これを、電鉄富山駅に乗り入れるには、富山口駅付近から北陸線を、跨ぐか潜って、北陸線の南側に出ないといけません。
北陸線との立体交差は、魚津近辺で2度もやってますが、あそこは田圃の中。終戦直後すでに市街化が進んでいたであろう、富山口駅近辺での立体交差は、なかなか難しいかもしれません。
富山港線の払い下げを受けない形での、このプランでも、稲荷町付近での立体交差を予定しています。現在の稲荷町跨線橋付近ですが、このプランが実現できなかった理由のひとつが、この跨線橋を含む都市計画道路計画とのかねあい。

この新線は、富山港線の払い下げが大前提の計画でした。
結局実現できなかったのですが、なんども請願書を提出したりしているところをみると、どうも払い下げが実現できそうな感触を、国鉄当局から感じ取っていたのかも知れません。そこであれこれ交渉した。。。絶対ダメなら最初から諦めて免許を受けたこのプランで工事始めるでしょうから。
富山港線払い下げにこだわったことが、新線が実現できなかった原因の一つかも知れません。

富山−高岡間の加越線予定地はサイクリングロードに化けたり、あるいは団地内のグリーンベルトとして非常にわかりやすい遺構が残っていますが、この海岸線については、用地買収が完了したとされる滑川−水橋地内における遺構を発見できておりません。
道路にでも転用されていればわかりやすく、往事を偲ぶことも出来ますが、地図を眺めてもそれらしい直線は見あたらないし、旧水橋町の郷土資料を漁っても、鉄道関係の記述が見あたらない。。。まだ発見できていないだけでしょうね。

もし予定通り開通していたら・・・

旧富岩線(現・JR富山港線)が戦後に国から返還されていたと仮定して、その終点岩瀬浜からの延長が実現できたとしたら。。。
沿線の人口集積地区は水橋地区ですが、ここはJR北陸線の水橋駅からやや離れているために、市街地近くに駅が出来たはずの海岸線の方が利用しやすいのは確かですが、その水橋から富山への通勤・通学利用を考えると、岩瀬地区へ迂回する海岸線と、人里離れた田圃の真ん中を走る北陸線では、所要時間は勝負になりそうもないですね。
ですが、岩瀬地区の工業地帯への通勤経路として機能するでしょうから、水橋地区の発展が期待できました。

ところで、運転系統はどうなっていたのでしょうか。
この路線の建設の意義は、運輸省提出書類によると、

  • 富山市北部工業地帯の開発
  • 水橋地区等、海浜地帯の交通機関の充実
  • 電鉄富山−宇奈月間の既設線との複線的運用による輸送力増強と短絡・スピードアップ

ということを謳っていますから、当然のこと、電鉄富山−西水橋−中滑川間の区間運転だけのはずはなく、魚津や宇奈月方面への直通列車も運転されていることでしょう。
ことに、昭和39年の変更ルートでは岩瀬地区を通らないものの、水橋地区までほぼ一直線の線形であるためかなりのスピードアップと距離短縮によるサービス向上と輸送力増強が図られたと思われ、民営化によるサービス向上が図られた北陸線との、富山−滑川、あるいは魚津や黒部間の競争にも充分対抗できたと思われるだけに、惜しいことです。

海岸線沿線には、松林が美しい「古志の松原」があり、海岸の景色を眺めつつ特急電車が疾走する姿も見られたことでしょう。

追記

昭和36年3月1日の「富山港線払い下げ還元請願書」について

富山地鉄は昭和36年に国鉄総裁に宛てて、首記の請願書を提出しています。これによると
「元来当社線だった富山港線は戦時中に買収させられたが、富山操車場とそれに直結する埠頭短絡線の開通によって、先に買収を必要とした、海陸一貫輸送は同線により達成しており、富山港線は臨港貨物線の性格を離脱し純然たる地方線になったので、国鉄経営の事由を根本的に解消している」ので、払い下げて本来の経営者である富山地鉄に返してくれ、と述べています。

払い下げ実現の暁には「機能改善し新線(注:海岸線)と結ぶと共に加越能鉄道が計画中の新線との連絡線を敷設して富山市中乗り入れする」と述べています。

昭和38年3月7日の「富山港線直通願」について

富山地鉄は昭和38年に国鉄中部支社長に宛てて、首記の願書を提出しています。これにはかなり興味深い記述があります。

  • 新線とは、東岩瀬で接続
  • 富山口と下奥井の間の、富山起点1000m地点から分岐して電鉄富山への連絡線を建設

としています。さらに具体的な運行プランについては

直通車についてラッシュ時:急行3〜5両、普通2〜3両
昼間:急行3両、普通2両
編成基本:2両(MT)、3両(MTM)、4両(MTMT)、5両(MTMTM)
直通列車回数急行・普通 交互60分毎(上下とも)
直通列車運転系統急行:電鉄富山−宇奈月間直通
普通:電鉄富山−滑川間直通
速度普通最高速度:70キロ
急行最高速度:75〜80キロ
本直通の為の富山港線改造
  • 昇圧
  • 交換駅増設
  • 蓮町−城川原間 複線化使用
  • 信号改良
  • 構内有効長の延長
  • 経路強化
直通開始時期昭和40年10月

ということです。

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