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Home加越能鉄道の未成線加越能高速鉄道計画

加越能鉄道・加越能高速鉄道計画

加越能高速鉄道全体計画図

昭和27年頃の加越能高速鉄道構想図[1]です。赤太線で示します。
富山−金沢間のほか分岐して七尾までの、文字通り「加越能」にまたがる鉄道網です。
この図を、昭和29年免許時や、昭和34年富山高岡間工事認可時の計画図と比べると、計画の変遷がわかると思います。

まえがき

「加越能」とは、富山・石川両県の旧国名である、「加賀」「越中」「能登」の頭文字を取って、この地域を表す名前であります。
2002年3月末を持って鉄道線の経営から手を引いた加越能鉄道。元来は富山石川両県に跨る高速交通網を築くという壮大な構想の下に「加越能」の名を冠して出来た会社です。
その加越能鉄道が推進した、加越能高速鉄道計画とは。。。

概要

事業者 加越能鉄道株式会社
区間(主な経由地) 富山−高岡−金沢
高岡−七尾
距離 富山−金沢間:64.9km
高岡−七尾間:37.8km
関係機関 富山県、石川県、金沢市、富山石川両県の財界

経緯

昭和08年01月31日
(1933年)
富山電気鉄道、富山−津沢間(砺波線)の鉄道敷設免許申請。
主な経由地は、現地鉄稲荷町駅より南富山駅を経て、現婦中町の鵜坂・速星・音川村、現砺波市の栴檀野・出町(砺波駅)を経て津沢へ至る。
昭和12年10月20日
(1937年)
加越鉄道、加越線藪波駅より金沢への鉄道敷設免許申請。
昭和19年11月
(1944年)
先の2件の鉄道敷設免許申請却下。
昭和22年1月
(1947年)
北陸鉄道、金沢−福光間鉄道敷設免許申請。
昭和23年7月28日
(1948年)
富山地方鉄道、富山−金沢間鉄道敷設免許申請。
昭和25年10月23日
(1950年)
加越能鉄道設立。
富山地方鉄道より、県西部に置ける鉄道・バス事業を分離独立させたもの。
昭和27年5月31日
(1952年)
北陸鉄道、富山地方鉄道の間で競合の形になっていた富山-金沢間高速鉄道計画の一本化を図るべく、加越能鉄道をその推進母体とするため、加越能鉄道に北陸鉄道が資本参加。
さらに、富山・石川両県と金沢市も資本参加。
昭和28年2月27日
(1953年)
加越能鉄道、富山−高岡−金沢間と高岡−七尾間の鉄道敷設免許申請。
昭和29年5月10日
(1954年)
富山−金沢間免許取得。(高岡−七尾間は、このときは保留)
昭和34年12月26日
(1959年)
富山−金沢間のうち、富山−高岡間について分割工事認可。
昭和45年11月 高岡−金沢間の起業廃止申請。
昭和46年11月 富山−高岡間の起業廃止許可。

>>さらに詳細な年表をこちらに纏めました。

解説

加越能鉄道とは

昭和25年に設立された鉄道・バス会社。
親会社である富山地方鉄道より富山県西部における鉄道・バス事業を譲り受ける。
この会社に、石川県や北陸鉄道も出資し加越能高速鉄道計画の推進母体となる。
>>外部リンク:Wikipedia「加越能鉄道」

加越能高速鉄道計画とは

江戸時代、富山石川両県はともに加賀藩主・前田家の支配下にありました。
加賀百万石と言いますが、その半分はいまの富山県地域です。いまの砺波地方と高岡(射水)地方それに新川地方が該当します。
(のこりは加賀藩より分家した富山藩。結局どっちも前田家)
ことに、江戸時代より富山県西部の砺波地方は金沢との結びつきが強く、明治維新を経て鉄道が広まる頃には、砺波地方と金沢を結ぶ鉄道を計画するグループが現れます。
このグループはやがて、加越鉄道という鉄道会社を興し、北陸線の石動から現在の城端線・福野を経て庄川町へ至る鉄道を敷設します。

石動経由ではありますが、砺波地方と金沢を短絡することに成功します。
この会社はさらに、藪波から金沢への鉄道敷設を企て免許申請しますがこれはかないませんでした。

のちに石川県を地盤とする北陸鉄道も、金沢−福光間の鉄道敷設を画策しています。
さらには、鉄道敷設法には、「富山県八尾ヨリ福光ヲ経テ石川県金沢附近ニ至ル鉄道」が記載されています。国鉄としても予定があったということは、需要というか、地元の強い要望があったと言えるでしょう。

富山地鉄グループの創始者・佐伯宗義氏はこれに、自らが唱える「富山県一市街化構想」の一旦としての富山〜砺波方面の鉄道計画とをリンクさせ 富山−高岡−金沢−七尾の加越能3州を結び、国有鉄道に依存しない地域独自の交通網を作り上げようとしました。
これにより中央集権的国家権力に依存しない地域経済圏をつくり真の地方分権を成し遂げようという思想です。
すでに国有鉄道の北陸線や城端線・氷見線・七尾線が存在していましたが、これらは全国一貫交通のためにある国有鉄道であり、地域に密着したダイヤ設定など望むべくもなく、くわえて当時は非電化(蒸気機関車)で時間もかかっていました。
そんな時代に高速な電車をこの地域に走らせ、国有鉄道の半分の時間で結ぼうとしていました。
最終的には、金沢より西進し小松・福井までつなげ、文字通り「北陸は一つなり」を実現しようとしていました。

>>加越能鉄道誕生以前について

免許取得時は

富山石川両県の官民による出資を得てこの鉄道の推進母体となった加越能鉄道は、これまで各社競願の富山−金沢間の免許申請を すべて取り下げた上改めて、富山−金沢間およびこれより分岐して佐野−高岡間と高岡−七尾間で、国に免許申請しました。
昭和28年(1951年)のことです。
翌年、富山−高岡−金沢間については免許されましたが、高岡−七尾間については免許が下りませんでした。

>>昭和29年免許時の計画について

>>免許が下りなかった高岡−七尾間について

事業着手された区間は

免許された区間は富山−金沢間ですが、工事認可申請できた区間は富山−高岡間を直結するルートのみでした。
呉羽地区や太閤山ニュータウン内およびその周辺で用地買収が進められたが、高岡市内のターミナル設置位置が決まらず、富山市中心部ルートも事業着手が遅れていました。

残りの高岡−金沢間が頓挫した理由はよくわかりませんが、おそらく、石川県側との協議がまとまらなかったのではないかと推察されます。ルートや高岡・金沢両市内のターミナル位置についても、いろいろな話がまとまらず、結局確定していなかったようです。
津沢経由や石動経由などいろいろなルート案があったが、とりあえず津沢までつくり、金沢までは暫定ルートとして、非電化の加越線を電化して石動にいたり、石動から北陸線に乗り入れようと国鉄当局に画策していた事もあったようです。
もし金沢まで開通できたら、金沢市内へは地下線で乗り入れる予定だったとか。

先頃、北鉄浅野川線が地下化したが、これより何十年も前に金沢に地下鉄が走る計画があったということです。

>>電鉄富山−電鉄高岡間建設計画詳細について

そうしているうちに月日は流れ、大都市圏に比べて整備が遅れ単線で蒸気機関車が走っていた北陸本線は複線電化・線形改良されて高速な電車が走るようになり、単線の加越能鉄道は存在意義を失います。くわえてモータリゼーションも進行し、もはや鉄道は交通の主役ではなくなっていました。
また加越能鉄道も、その親会社の富山地方鉄道も、それ自体が乗客の減少等により経営が危うくなり、赤字路線の廃止や人員削減などの合理化を進める事態となれば、もはや新線建設は夢物語にもならなくなってしまいました。

昭和45年(1970年)に計画を中止し、翌昭和46年(1971年)に起業廃止を申請。
買収された線路用地は富山県に買い上げられ、中央サイクリングロード(富山県道370号富山庄川小矢部自転車道線の一部)として転用されるました。

もし予定通り開通していたら・・・

明治維新後の産業革命、そして敗戦後の新日本建設。
庶民生活は貧しかったとはいえ、そのころには、夢がありました。

国鉄にとってかわり、地元資本による、地元民のため、地元の発展のための交通網。
地方交通網の整備によりこの地方の発展を促進しよう。。。

平成デフレ不況に悩む現在から見れば、まさに夢物語なんですが、当時の新聞からも、新日本建設の熱気というか、戦後復興への熱いパワーが伝わってくるようで、
その名残が、今の北陸新幹線なのでしょうか。

ところで、現在の北陸本線は複線電化されて、富山−金沢間は、普通電車で1時間、特急で30分程度で結ばれています。
加越能高速鉄道計画は、実現していれば後の世に於いて、これと競合するわけです。
高岡−七尾間は、北陸線津幡を経由することにより、約2時間で結ばれていますが、これは氷見経由とすることで大幅な時間短縮を図ることが出来るでしょう。ゆえに、高岡−七尾間は敵なしの状態ですが、こんどは、採算が取れるほどの需要があるかどうかと、車社会との絡みの問題が出てきます。
ルートにもよりますが、だいたい、氷見から七尾までは、山ばかりだし・・・

経営が成り立ったかどうか、想像も出来ません。
もちろん、この鉄道により沿線開発がもっともっと進んで需要が増えたかも知れません。

ひとつ確実に言えることは、石動−庄川町間を結んでいた加越線、昭和47年廃止ですが、これの寿命は大幅に延びただろうと。
富山−金沢新線と有機的に結びついて、たとえば、電鉄富山発津沢経由石動行きとか、金沢発庄川町行き電車が設定されたりして、もっと価値のある路線になっていたでしょう。

まとめ

地方私鉄の計画としては全国に例を見ないほどの大規模であった加越能高速鉄道計画。
その一連の流れを、地鉄グループ全体の出来事、および世の中の出来事とあわせて、年表に纏めました。

>>詳細年表

出典

  1. ^「富山地方鉄道五十年史」 富山地方鉄道株式会社
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