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Home加越能鉄道の未成線加越能高速鉄道計画電鉄富山−電鉄高岡間工事線

加越能鉄道・加越能高速鉄道計画

電鉄富山−電鉄高岡間工事線

総延長100kmを越す加越能高速鉄道計画のうち、免許を得られたのは富山−高岡−金沢間のみ、さらに、実際に建設工事に取りかかれた区間は、富山−高岡間のみでした。
ここでは、その工事区間・富山−高岡間についてまとめます。

概要

事業者 加越能鉄道株式会社
線名 金沢線
区間(主な経由地) 電鉄富山−総曲輪−寺町−黒河−太閤山−水戸田−蓮花寺−電鉄高岡(仮)
距離 22.12km
費用 1200000千円[1]

MAP

電鉄富山−電鉄高岡間工事線
※MAPをクリックすると拡大表示します。

建設計画線通過地を予想したものを赤線で示す。
黒線は現在のJR各線、青線は現在の私鉄線(富山地鉄と万葉線)。
青緑線は、当時存在し現在は廃止済みの路線です。
計画線の富山側ターミナルは、現在の電鉄富山駅だが、高岡側のターミナルが未決のままだったのでここでは 仮に、JR高岡駅付近にターミナルを想定してみた。

JR小杉駅と、計画線の太閤山駅予定地との距離は、おおよそ2kmである。
両線は、至近距離をほぼ平行していたことがわかる。

経緯

昭和28年2月27日
(1953年)
加越能鉄道、富山−高岡−金沢間と高岡−七尾間の鉄道敷設免許申請。
昭和29年5月10日
(1954年)
富山−金沢間免許取得。(高岡−七尾間は、このときは保留)
昭和34年12月26日
(1959年)
富山−金沢間のうち、富山−高岡間について分割工事認可。
昭和35年9月
(1960年)
用地買収が本格化する。
昭和40年ごろ
(1965年)
建設用地買収を見合わせる。
このころまでに、予定地全体の51%の買収を終えている。
昭和46年11月
(1971年)
起業廃止許可。

解説

富山県内のいわゆる「未成線」の中では遺構が残っていて、わかりやすい路線ではあります。

起点は現在の電鉄富山駅。いまは3面4線の頭端式ホームですがこれは昭和62年に改築されたときのもの。それ以前は、いまの駅ビルの位置に3面5線だったと記憶しています。もしこの計画が完成していればホーム容量が足りなくなると思われるので増設するつもりだったのでしょうか。

電鉄富山を出ると、富山市内を流れる松川の右岸を高架で遡ります。今の城址公園のあたりに駅が出来たと思われます。神通川を渡り、昭和55年に廃止された射水線の新富山駅に接続、富山大学の南側を通過します。当時は工学部は高岡市にあったので、このあたりは一面の田園地帯だったことでしょう。国鉄高山線を越えて呉羽山をトンネルで抜け、呉羽山の西側の花ノ木、黒河を通過へ。電鉄富山から花ノ木まで高架で建設する予定だったといいます。
そして、太閤山に至ります。

現在の太閤山団地の中央にパスコというショッピングセンターがあり、銀行などもあつまっている一角があるが、ここに駅を設置する予定だったといいます。
太閤山団地は、建設当時日本海側最大規模を誇り、富山と高岡のベッドタウンとして、そして富山新港地区に造成される臨海工業地帯の従業員用住宅用地として富山県によって開発されました。計画当初は、この鉄道を、団地の基幹交通手段と位置づけていたとのことです。
団地内を東西に横断するグリーンベルトがあるのですが、これが鉄道予定地だそうです。

太閤山団地横には、富山県立大学があります。開学は平成2年ですが、昭和37年より大谷技術短期大学があり(現在は県立大学の短期大学部)、通学生の利用も見込めたと思われますが、果たして新線計画時に、この学校の計画はあったのでしょうか。。。

太閤山を出てから水戸田などを通り庄川を渡ります。大野より再び高架になり、高岡へと続きます。
現在の万葉線は、JR高岡駅前より発着していますが、昔はここは新高岡駅と称していました。
高岡側のターミナルは、その新高岡に接続する計画もあったようですが、現在の読売新聞北陸支社ビルに駅を引き込む計画もあったようで、結局の所は、未決のまま計画は頓挫したようです。

買収された用地は県が譲り受けてサイクリングロードに。現在の中央サイクリングロードの一部区間は、このときの建設予定地です。

もし予定通り開通していたら・・・

富山県内の交通地図が劇的に塗り変わることになったはずです。
少なくとも呉羽地区から太閤山にかけての宅地開発が今以上に進展したはずです。
現在の公共交通機関はバスくらいしかない太閤山団地の交通の便も飛躍的に高まったと思われまする。

しかし、富山と高岡を結ぶ高速鉄道としては、はたして現代でも生き残っていけたのでしょうか。
最高時速100km平均時速60kmで、富山−高岡間を急行で16分程度、普通で25分程度で駆け抜けることになるということですが、後に国鉄北陸本線が複線電化されると、非常に苦しくなるとおもわれます。
この計画が潰えた理由のひとつがそれであろうことは容易に想像が付きます。

運賃面でアドバンテージがないと苦しいところだが、その点はどうなっていたのでしょうか。

現在の富山地方鉄道は、滑川−新魚津間は普通電車で約14分かかって400円、競合するJR北陸線の滑川−魚津間は、約8分かかって、たった190円です。
駅間距離が異様に長く利用しづらいJRに比べて地鉄はこまかく駅を設けて地域住民の利便性は高いのは確かなのですが、運賃は非常に高い。このデフレ不況の時代に、これは利用者にとって非常につらいものがあります。
通勤やビジネスに利用しようものなら、会社に余計な運賃負担を強いることになります。マイカー移動の方が、よっぽど経済的であると思われてしまう。
これは利用者の減少に伴う減収分を埋めようと、運賃改定を重ねた結果ですが、かつて富山電気鉄道として電鉄富山−滑川間を開通させたとき、運賃は、同区間を走る国鉄(当時は鉄道省)北陸線より割安だったといいます。
富山−高岡間の都市間連絡鉄道として、また、太閤山団地や呉羽方面の住宅地の住民の脚として、利用が伸びれば、現在の富山地方鉄道のような割高運賃にならずにすんだのでしょうが、はたして。。。

車両面では、いまだに堅いボックスシートしかないJRの普通車両に比べて、地鉄系ならば転換クロスシート標準装備の特急車を配備しただろうから、地鉄本線と比べて線形もよさそうだし、乗り心地では勝てたのではないでしょうか。

出典

  1. ^富山県史・史料編[現代に収録の、富山県経済部編「商工要覧」[昭和26年3月刊行]

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